純文学、エンタメ? 何が違うのか? に対する個人の見解

なんとなくだが急に文学について考えてみたので、書いてみることにした。

結論については無理やりかもしれないし、異論はコメントにて認める。

目次

日常に潜む芸術

相鉄ローゼンの野菜コーナーでぼうっとあたりを見渡してみると、バカのようにでかい白菜があった。

人の顔の2倍もあるような白菜で、これを鍋で茹でたら面白い動画が撮れそうだ、なんていうYouTuber思考になってみたりする。

youtubeなんて撮ったこともないが。

その横に1人用と書かれた白菜の欠片のような白菜があった。

その時、ふっと小川洋子の短編集「いつも彼らはどこかに」に収録されている「帯同馬」というお話を思い出した。

もちろん、その時、その本を思い出したわけじゃない。

厳密にいえば、あ、この感じ、小川洋子の小説で感じたことがあるって思った。

これが純文学なのである。

どういうこと、と思われた方、異論は認めるが、先を続ける。

もう1度いうが、これが「私」の中での純文学なのである。

具体的には、

日常、生きているうえで、

  • あーこの感覚、あの本に似ている。
  • あーこの景色、あの本で読んだ。

というのを思えるのが純文学なのではなかろうか、異論は認める。

純文学とは?

純文学とはそもそも芸術性を追求したものであるらしい。

では、芸術とはなんなのか。

芸術とは爆発だ、とかの岡本太郎は言った。

芸術とは、

芸術またはアートとは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動を表す。

とWikipediaは言った。

どちらが正しいのかわからない。

多分この解釈の正解は全世界の人口分はある。

私の芸術に対すること答え

そして私の解釈は、

芸術とは、何か知っている、である。

芸術とは、なんとなく言いたいことはわかる、である。

美術館で絵を見て、なんとなく言いたいことはわかる、と思うことがある。

が、それを自身では言葉にできない。

代わりに誰かが絵に昇華させてくれている、だいたいそういった作品は代弁してくれた作品として心の中に残る。

それが芸術である。

その逆もある。

冒頭で言ったように生きていくうえで、ふっと作品を思い出すことがある。

それも芸術である。

つまり、漠然と心に残るものは皆、芸術である。

私にとっての純文学

ふっとなんかの機に思い出す小説は、私にとっての純文学なのである。

それはラノベだってかまわない。

山梨にキャンプに行く道中、道志村の手前で、蜩の声に囲まれた時、「ひぐらしのなく頃に」を思い出した。

夜の体育館を見ると「六番目の小夜子」を思い出す、それらは皆、私にとっての純文学である。

次に読むおすすめ記事

出会いは最悪だが、終わりは良かった「癒し屋キリコの約束」の魅力

文章についてのあれやこれや

はたして、〆切は必要であるのか?

拝啓「葉桜の季節に君を想うということ」を読んでない人に告ぐ。この本はどんでん返しがある。

短編小説『ジョゼと虎と魚たち』これは名作

この記事に対するコメント

お気軽にコメントを下さい

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です